近藤 誠介(文化の森スクール・徳島県)
「あなたは、あなたの国に敵対する組織に属したり、敵対する意見を表明したりすることはありますか。」
これは、日本における難民審査で訊かれる質問です。
「日本政府がこのような質問をすることは、難民を保護するという観点から見たときに、どのような問題があると考えられますか。」
これは、今年の麻布中学で出題された社会の問題です。
「あなたは自分を利口だと思いますか?」
「自分の腎臓を売ってもいいでしょうか?」
「もしこの紙を無限回数折りたたむことができるとしたら、何回折れば月に届くでしょうか?」
「木を描くとします。 その木は現実のものですか?」
「あなたは脳のどこがいちばん好きですか?」
これらは、オックスフォード大やケンブリッジ大の入試問題です。
フランスの高校では哲学が必修です。バカロレア(大学入学資格試験)では文系理系を問わず哲学の筆記試験が課されます。手元に、それの受験参考書のような「フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者」という本があります。プラトン、アリストテレスからヘーゲル、キルケゴール、フロイト、サルトルまでの言説を紹介しています。参考書といっても、読んでいて面白いものです。例えば、スピノザの問題発言「恋愛は外因による喜びである」。モンペリエの同じ下宿にパリとストラスブール出身の学生がいたのですが、彼らがなかなか理屈っぽかったのは、高校でのこういう学習経験があったからかもしれませんね。
では、何故こういう決まった答えのない出題や哲学が必修とされるのでしょう。
「生物はなぜ死ぬのか」生物学者の本です。
「生物の成り立ちは『変化と選択』による進化の賜物です。多様性が重要なのです。当然ですが、子どものほうが親よりも多様性に満ちており、生物界においてより価値がある、つまり生き残る可能性が高い『優秀な』存在なのです。言い換えれば、親は死んで子どもが生き残ったほうが、種を維持する戦略として正しく、生物は多様性重視のコンセプトで生き抜いてきたのです。
―中略―
このような生物の死の意味から考える、ヒトの場合、親や学校なども含めたコミュニティが、子どもに何を教えるべきか自ずと見えてきます。まず、必要最小限の生きていくための知恵と技術を伝えるのは当然です。ここからが重要ですが、次に子どもたちに教えないといけないのは、せっかく有性生殖で作った遺伝的な多様性を損なわない教育です。ヒトの場合には、多様性を「個性」と言い換えてもいいと思います。親や社会は、既存の枠に囚われないようにできるだけ多様な選択肢を与えること、つまりは単一的な尺度で評価をしないことです。」
哲学者の内田樹は教育についてこう語っています。「教育の目的は『有用な知識技術の獲得』と『格付け』だけだと多くの人は信じている。査定が高ければ豊かな資源分配に与り、高い地位につき、高い年収を得て、レベルの高い配偶者を手に入れることができる。査定が低い子どもたちは、その『身の丈』にあったレベルの社会的地位に甘んじなければならない。学校は資源分配のための格付け機関だと、そう信じている人が親たちの八、九割であり、教師たちでも六、七割に達していると思います。」(大学の教育改革をみていると、政府や文科省、経済界もほとんどこのように見ていると思います。)では、内田氏は教育をどのようなものと考えているのでしょう。
学校は、子どもたちの成熟を支援する場です。僕が考える「成熟」というのは、「複雑化」ということです。成熟というのは複雑化することで、昨日とは違う人間になるということです。「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」ということでしょうか。人格が多層化し、目の前の出来事を捉えるときの視座が増えると、立体視できるようになる。そうやってしだいに「一筋縄では捉えられない人間」になっていく。それが成熟ということです。「元の自分もそこに残っているが、そこに新たな要素が加筆されたために、人間としての厚みや奥行きが増した。」既成概念を疑う。そのためには、もちろん、考える基本となる知識は必須です。アクティブラーニングでは、多数の課題を読むことから始まります、大人になるということ(自立すること)は、成熟する、つまり複雑になるということです。大人になると選挙権がありますね。
「民主制は合意形成するための技術と器量が要ります。民主制というのは、主権者を成熟させるための制度なのです。民主制以外の制度、王政、貴族制、そして独裁制では、民衆は幼児で無思慮であっても困りません。むしろ、その方が都合いいでしょう。民主制は面倒です。民主制を余り好まない人は、要するに『私は幼児のままでいたい』ということです。成熟して、複雑な問題を扱うような社会的能力を獲得する気がなく、勝ったものが総取りして、トップが全部決めて、対話も合意もなくて、ただ、命令と服従だけのシステムにして欲しい。」
また、内田氏の中にもこういう一節があります。「生物は進化します。進化というのは複雑化するということです。」ここでも複雑化という言葉がでてきます。
やはり、複雑化というのが、人間の本質だと思います。人間の知性は、葛藤―あれこれ考えること―で開発されます。正解を暗記することではなく、吟味することです。ほんとうに使える能力というのは話を簡単にする能力のことではありません。そうではなくて、複数の仮説を並列処理できるだけの「頭の中のスペースの大きさ」のことです。養老孟司先生は、そのことを「頭がいい」ではなく、「頭が大きい」とか「頭が丈夫」というふうに形容しているそうです。問いと答えを暗記しておいて、あらかじめ暗記した答えで問いに即答する能力は、知的能力のうちのほんの一部にしか過ぎません。それで、冒頭に挙げたような入試問題の登場となるのです。
では、複雑化、成熟化するには、何が必要なのでしょう。やはり、「自分の頭で考える」ということなのではないでしょうか。学問の世界で、「科学的に考えるとは、すでに打ち立てられた確実性のなかにいるのではなく、無知の広がりに対する根本的な自覚こそが科学の力の源になり、知っていると思っていた事柄を絶えず疑うことができるようになる。知の探求を養うのは確かさではなく、確かさの根本的な欠如なのだ。」と「ループ量子重力理論」の物理学者カルロ・ロヴェッリは述べています。
養老孟司氏はこんな例をあげています。大学での話です。「コップに水が入っていて、そこにインクを一滴たらすと、しばらくして消えてしまう。どうしてだと思う?」と問うたとき、ある学生から「そういうものだと思っていました。」という答えが返ってきました。これもまた皮肉な言い方をすれば、それが近現代の教育の意図する模範解答だということです。高校のとき、「そこから先は考えなくていい」という答えを、自分なりに発見したのかもしれません。ここには、「考える」が出てきません。
しかし、自分の頭で考えることは、結構面倒くさいことです。例えば、日常的な話ですが、旅行一つをとっても、パック旅行ではついていけばいいだけなのですが、一人で旅するといといろとトラブルがつきまといます。寝坊して名所を見落とすこともありますが、ボチボチ歩くことでしか、出会えないこともたくさんあります。数学も、解法をすぐに見て、覚えて、それでできたことにしてしまったのでは、数学を解いたことにはならないでしょう。また、課題をこなす勉強法は、ある意味楽です。揺れる思考過程が複雑化の要素です。自然の摂理が複雑化・多様化ならば、それだけではバラバラになり、人類は生き残れません。人類はそこで「共感する力」が不可避です。人類はサバンナに降り立ったときから、いっしょになって生き残ってきました。
ある小児科医の話です。彼の恩師が、「子どもの死を悟ると,みんな天使のようになる。切ないね。」このとき私は,「死を現実のものとして受け入れた瞬間に、心の奥底から沸々と『共感する力』が沸いてくるのではないか」と思いました。「共感する力」はもう人類の本質と言わざるを得ません。
さて、現状の教育環境はどうでしょうか。教育改革では「思考・判断・表現」が大事であるとされていますが、共通テストは、判断力というよりは単に要領の良さを問うているとしかみえません。「論理国語」「文学国語」と分ける、という発想も単純化です。そして、大学教育においては「PDCAサイクルを回す」とか「質保証」とか、製造業で使われる用語が、ある時期から定型句になっています。これは多様化、複雑化というより単純化、効率化です。「複雑化」を支援することが教育であるはずですが。
この単純化・効率化という観点からすると、早期教育もそうなのかもしれません。前述の小児科医がこうも言っています。「大前提として、何かを早くできるようになることと、そうして習得したことが将来もっとできるようになることとは無関係です。」納得です。
教育において、「ああすればこうなる」という方程式で括れるような正しい育児法はありません。脳科学において、心理学者のリサ・フェルドマン・パレットは、「感情の動きを丁寧に調べていくと、脳で起きる生理反応は結局、バラバラで特定の反応は認められなかった」と書いています。研究が進めば進むほど、わからないことが増えていくようです。本当に、子育てとか教育というものは手間暇のかかるものです。しかし、この多様性、複雑であることこそが、人を前に向かって進ませているのかもしれません。ますます、一つの答えでない時代になっています。こんなときだから、この本質に向き合う教育が何よりも重要なのです。
引用参考文献:
『生物はなぜ死ぬのか』小林武彦著
『複雑化の教育論』内田樹著
『子どもが心配』養老孟司著
『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』カルロ・ロヴェッリ 等