エリア報告|十亀 幸雄 (十亀塾・愛媛県)

先号の私塾ネット広報で、私方のエリアの山本壮太郎先生(稲伸ゼミナール)が、野外学習レポートを書かれているのを見て、これはいいなと思いました。コロナ禍でエリア内の塾の皆さんの動向がわからなかったものですから、「うん、これだ」とまねをして、野外学習の種探しにと、周辺の井手(農業用水路)をいろいろ歩きました。私たちの地域砥部町で著名な明和の水争いからちょうど今年が250年、井手を通してこれを調べようと思ったからです。

温故知新 明和の水争いと義農兵右衛門(ひょうえもん)

古来、水争いはいつも分水工(ぶんすいこう・幹線水路の水を複数の支線水路に分けるところ)で起こります。砥部町では、重信川(愛媛県最大の河川)から古樋井手と市之井手の代表的な井手が引かれていて、両者は、古樋懸け樋というところに分水工があります。明和8年(1771)の大旱魃の際に麻生村(現砥部町)と下五ヶ村の間で死者がでる水争いが起こったのです。この裁判は、村人300余人が岡山の例の「青天を衝け」で渋沢が赴任した幕府代官所でおこなわれましたが、長引きました。皆が投獄の責め(拷問)を1年余受けるなか、麻生村組頭兵右衛門が一身に罪をかぶり死罪となることで、村人は帰村する事ができたという出来事です。

井手からイノベーションを考える

町内の井手を3ヶ月ほど歩き回りました。それが挿図です。おもしろい事に気づきました。各井手は相互補完的に結びついていたのです。地域の日常では井手を相互補完的に使うことでやって行けたのですが、気象変動による大災害があったとき、従来の保守を続けるだけでは水不足になりました。このとき人々には、神仏の加護を願うか力で解決するかの方法しか在りませんでしたが、解決には至りませんでした。自然の大旱魃には対応できませんでした。私は、社会の発展には技術・財力・人の3要素が不可欠と考えていますが、当時は前2者が欠けていたのです。しかし、明和8年の水争い後10余年後、前2者の進展とともに大規模な赤坂泉や通谷池が開鑿され、以降の水争いはなくなりました。社会の発展は直線的ではなく、壁が有り段が有り、それを乗り越えて進展していくのがわかる事例でした。地域の課題を見つめ、絶えず技術、財力、組織(人)の3要素を鍛え、保守を乗り越えて先を読み取っていくイノベーションが求められていたのです。

忘れてはならないことがあります。このイノベーションは、井手の相互補完的なあり方を否定していません。今も続いています。もう一つ、中小の溜め池・井手も独立して立派にその役割を果たしています。そこでも小さなイノベーションが起きていたのでしょう。

現在の私たち私塾の姿と重ね合わせて、井手から学ぶべきことがたくさんありそうだと考えさせられる井手歩きとなりました。]