父の遺志と塾舎を継いで、2代目塾長の決意
『菅総理には菅官房長官が必要だ』という話がある。もう4年も前から私が使っているフレーズだ。『私にはもう一人櫻井が必要だ』。それは私がとても有能だという事ではない。2017年に亡くなった父・立脇尭と私の他愛もない話だ。
私は三人姉妹の三女として生まれた。父は男の子を望んでいて「勇太」という名前まで決めていたとのこと。女の子なので名前はどうしょうと母が尋ねると、「勇子」でいいよと父。さすがにそれは可哀想と、母に女の子らしい名前をつけてもらったが、父の思い通り勇ましい子に私は育った。なので、恐れることなく父にも真っ向勝負で挑んだ。反抗期と呼ばれる年頃はもちろんのこと、富士進学スクールで仕事をする大人になってからも、おかしいと思ったことは意見した。仕事上の討論のはずなのに、親子喧嘩に発展して怒鳴り合いになるさまは、今でも笑い話にされている。父との喧嘩で、私は2回仕事を辞めている。事務仕事が苦手な父が困り果てていたり、先生方から戻って欲しいと言って頂けたりで、復職するのだがまた何年かすると同じ事を繰り返す。社員の先生方からしたら迷惑な話だ。しかし父の病を知り、戻ることを決めた時の父の嬉しそうな顔を私はずっと忘れない。
喧嘩にならない為には、先生方の仕事を潤滑にすること。怒りの元となる報告の仕方を変えること。などなど、塾長と先生方の調整役になることに務めた。何年か過ぎた頃に父が言った。「美穂が戻ってきてくれて本当によかった。色々な事を一人で考えるのが70%くらい放っておいてもよくなった。パーって明るい気持ちになるよ」。この3年後くらいに父は亡くなるのだが、塾を継いでいくという決意ができたのは、この時のこの言葉があったからだと思う。だが、当初はすぐに後悔した。立場が変われば伝えたいことも変わってくる。最終決定も自分だ。調整役では仕事にならない。そうか、父が言っていたのはこういうことなのか。『私にはもう一人櫻井が必要だ』。ずっと思ってきたが、それは無理なので私なりに奮闘しているところだ。そしてもし、もう一人の櫻井が実現できるとしたら、勇ましい人ではなく、穏やかでしなやかな人を希望しようと思う。