数年前の秋のこと、石鎚山に連なる山中で道を失い迷ったことがあります。平たくいえば遭難したのです。仲間二人とともに千米級のさほど高くはない山々を縦走していました。何をしにといわれるかも知れませんが、山伏の行者道や修験遺跡の調査でした。じつは、この50年間、塾の先生とインディ・ジョーンズと同じ考古学者の二足の草鞋を履いているのです。民間の考古学者におくられる藤森榮一賞を頂いたこともあります。このとき朝の9時から夜の9時まで12時間歩き続けたのですが、山が深く、最後には深い渓谷に追い込まれてしました。そのとき私の掌に、PCのディスプレイのように文字が映っているのがみえ、人を超越した存在になったかに思えました。幻覚です。GPSも持たず山に入った未熟の結果でした。
こうした体験を1月、2月の今になって考えています。この時期の塾はと一般化して話すことなどできるわけではないのですが、いずれも中学や高校受験で大変な時期でしょう。私方の塾は個別指導で、何人かの大学生の講師がそれぞれ1:2で個別に指導しています。私と講師の先生との間で、どうするこうするとにぎやかにやっていますが。一方、私が担当する自立型の教室の風景は淡々としたもので、中3生はほぼ毎日、めいめいの時刻にやって来て、県立高校の過年度の問題をといています。私の熱血指導はありません。1つの問題、1つの教科の学習は多様でしょうが、この時期、毎日淡々と問題を解き続けてゆくことに大きな意味があることは塾の先生には理解して頂けるでしょう。
「学力」の高い塾生には難問への挑戦をやってみよといい、不安定な「学力」の塾生には、受験校に合わせた範囲の問題をといいます。そうしながら、実は私も学んでいるのです。例えば、国語や英語の長文読解指導についてスキーマ理論(中核となる体験を元とした解法)での指導をもっと講師に伝えることの必要を実感しています。また、「学力」の不安定な塾生にはたして図形の論証の勉強が必要なのかと疑問に思い、必要はないと考え削ります。私はそのように学んでいます。
職員室で塾生が配点表や解答資料を取りに来るのを待ちながら、消しゴム1個が落ちてもわかる静寂のなかで勉強する塾生を時折のぞきに行きながら、目的に向かう1筋の道、1つの指針を提示できることが大切なのだと思っているのです。私の山登りにもまたGPSが必要であったのだと痛感し、今はもうスマホにGPSアプリをインストールしています。二兎を追う新年度への思いを巡らせながら、そのようにして、穏やかなこの1月、2月を過ごしています。