故・佐藤勇治先生を偲ぶ

┃ 加藤 実 (私塾ネット会計監査)

平成5年4月17日、全国私塾連盟事務局長の佐藤勇治先生より突然電話があり「明日総会なんですが、小宮山広報部長の後任が決まってないのです。ぜひお願いしたい」と。私は「とんでもない、自信がありません」と申し上げたのですが、「全面的にサポートしますので、なんとかお願いしたい」と。結局のところ佐藤勇治先生に押し切られて広報を担当することになりました。それ以来、佐藤勇治先生との蜜月時代が始まったわけです。広報に必要な写真、資料を要求すると何でもさっと出てくるわけです。また写真に写っている先生方のお名前もすべてご存じで、以後キャプションをお願いすることにいたしました。佐藤勇治先生は昭和56年4月から事務局長をされていて、30代前半の若造の私にとってはまったくの雲の上の存在だったわけです。

佐藤勇治先生に「原稿が集まらずに困っています」とご相談すると「加藤先生が取材して書かれたらいかがですか?」とアドバイスされたわけです。それ以来、北は札幌、旭川、根室、北見沢、南は熊本、鹿児島まで全国を駆け回って記録を取り続けたわけです。

佐藤勇治先生は「NPO法人全国教育ボランティアの会」でも事務局長をされていて、田中敏勝理事長、西畑正夫副理事長、一橋大学大学院教授中嶋浩一先生と共に企画立案され、文部科学省等の後援をいただいて、これまた全国を駆けずり回りました。私はただ佐藤勇治先生の言われるまま、あとを追いかけて写真を撮り、報告書を書いて広報に記載するだけでした。九州鹿児島、中国鳥取・広島・小豆島、四国池田・高松・徳島・松山、東北秋田、北海道名寄等々で「生きいきワクワク体験親子の集い」を開催。佐藤勇治先生と田中先生指導による豆腐作り、アイスキャンデー作り、ラムネ作り、四国の先生の指導でチーズケーキ作り、田中敏勝先生製作指導によるスーパーグライダー、フワフワ飛行機、西畑正夫先生製作指導によるブーメラン作り、ミニプラネタリウム作り、四マス魔方陣、ハノイの塔、望遠鏡作り、備長炭電池等々子供たちに大変喜ばれました。200人以上の子供たちと親御さんたち。毎回大盛況でした。

著書も多数あり、毎年発刊されていた「私塾・私学・企業教育ネット要覧」の他「全塾連の歴史」(全七巻)、「学習塾百年の歴史・塾団体五十年史」他多数。

令和5年4月16日佐藤勇治先生塾舎「調布学園」にて13時~15時会議があり、次の会議はいつかなと思っていた矢先の7月9日老衰のために死去されたと。少し元気ないなとは思ってはいましたが、亡くなられるなんて全く考えてもいませんでした。これから先どうしたらいいのか?佐藤勇治先生ほど仕事ができる人いるのでしょうか?困りました。

佐藤先生、お疲れさまでした。ゆっくりお休みください。享年88歳でした。近いうちまたお会いしましょう。合掌!

┃ 湯口 兼司 (私塾ネット副会長)

佐藤勇治先生ご逝去の報に接して、そして…佐藤勇治先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

佐藤勇治先生は、私たちの加盟している全日本私塾教育ネットワークの発展とまとまりに大きく貢献して頂いただけでなく、塾業界全体の底上げにも大変貢献して頂きました。そして「全塾連」・「PTF」・「日私会」が一つにまとまり、「私塾ネット」として新しくスタートした時の初代事務局長として、まとめ役を担って頂きました。また私塾・私学・教育ネット要覧を二十数年に渡り発刊して頂き、業界の発展に大きく寄与されました。私自身も、調布市国領町にある調布学園に何度かお邪魔させていただきました。私塾の歴史資料館開館の際にもお招きいただき、由美子奥様にも大変お世話になったことを思い出します。

私にとって一つ悔いの残ることは、今年1月に開催された『西畑正夫先生をしのぶ会』を、勇治先生よりご案内頂いていたのに参加出来なかったことです。西畑先生には全国教育ボランティアの会の活動等でいろんなことを教えて頂き、お世話になりました。その偲ぶ会に参加出来ていれば、佐藤勇治先生にお会いすることも出来たし、西畑先生やそのご家族に感謝の気持ちを表すことが出来ました。新型コロナの影響とは言え、上京出来なくて本当に残念でなりません!

佐藤勇治先生、西畑正夫先生、安らかにお眠りください!!

┃ 河浜 一也 (私塾ネット副理事長)

心からの感謝をささげます。

一冊の本がある。

背表紙には、違い鷹の羽の家紋の下に「絆・佐藤家とその周辺の人々」。確か1998年に佐藤先生にお送りいただいたものだと記憶している。

私と佐藤先生とのお付き合いは、その十年ほど前に、当時の全国私塾連盟理事長の故山口恭弘先生につれられて、初めて春の総会に参加させていただき、ご紹介を受けたことに始まる。その後、私は、長い間山口先生とご一緒させていただいて各地を行脚、その行きかえりの中で、山口先生からいろんな話を聞き勉強させていただいた。その最初のお話は、その総会の帰りの新幹線の中、山口先生がいかに佐藤先生を信頼しているかという話だった。積極的な取り組み、細かい配慮、そつのない運営、そして決して出しゃばらず会を支える姿勢。どれをとっても誰もが認める名事務局長だというのだ。私はその後のお付き合いでその信頼そのままに、私自身も佐藤先生に信頼を寄せることとなる。

以来、先生と頻繁に行き来をさせていただいた時期を持つ。1993年には、何人かの東京組の先生方とともに私の結婚式に来ていただき、またその様子は写真とともに全塾連の広報誌に掲載された。原稿は広島のホテルで書かれたというから、いかに忙しく動いておられたかがわかる。

そして翌年春、全国私塾連盟は設立三十数年を経て、初めて東京を離れて広島の地で総会を開催した。河浜は企画責任者として、1日目の総会と研修会(パネラーブースとコメンテーターブースを設け、電光掲示板によるその場アンケート、YES/NOスイッチと電子掲示板は大阪のテレビ局からお借りした。)前日には塾見学ツアー、あくる日は高速船をチャーターして瀬戸内海クルーズの1日を加えた。)この時も、東京にあって全面的にバックアップしてくださったのは佐藤先生だった。先生はそれを「絆」の御本に6ページにわたって写真付きで紹介してくださっている。
数年後、広島まで来られた先生は、私の本部塾舎や数ブランチ、当時私が中国山地の清流のそばで経営していたカフェ、中国山地の標高800mにある当塾の巨大ログの合宿施設を回られ、「ずっと来てみたかった。納得したよ」と青空を見上げながら話された。その後40歳代後半で、腎臓病や心臓病を発症した私は、上京することも一朝一夕にはできないこととなり、「塾の歴史」に「吉田松陰の伝記を最初に書いたのは日本人ではない」という文章を寄稿させていただいて以来、やや疎遠となっていたことは残念なことである。

「先生、佐藤先生!先生の訃報に接し、広島で、天に向かって話しかけました。

先生、今日までありがとうございました。いつもいつも、かわいがっていただき、心から心から感謝しています。本当にありがとうございました。」合掌。

佐藤勇治先生、西畑正夫先生、安らかにお眠りください!!

┃ 谷村 志厚 (私塾ネット最高顧問)

戦後の学習塾第1章の終焉

佐藤先生と始めてお会いしたのは、私塾ネット設立の3年前の1998年6月、全塾連(全国私塾連盟)とPTF(全日本私塾協会)2団体合同に向けた第一回目の会合の席であった。東京駅地下街の八重洲倶楽部が会場であったと記憶しており、先日の佐藤先生のお別れ会のスピーチではそのように発言していた。ところがこの一文を書くにあたり、「塾団体五十年史」をあたってみると、銀座新聞会館が会場とある。それも自分が投稿した拙文にそうある。人の記憶はあてにならないもので、頼るべきは確かな記録というわけだ。早速佐藤先生の労作である「五十年史」にお世話になりこの一書の意義を実感することになった。

さてこの塾の歴史書、正式には「学習塾百年の歴史/塾団体五十年史」は、まさに奇跡の一書である。副編集長の菅谷さんほか、多数の方のご協力で刊行されたものではあるが、佐藤先生の存在と信念なくしては日の目を見ないものである。日本の歴史書の筆頭である「古事記」を編纂した太安万侶に因んで、「佐藤先生は塾界の太安万侶です」と、とあるパーティで発言したことがある。これには佐藤先生ご本人が苦笑いをされていたのを思い出す。

改めて目を通してみると、2012年に上梓されたこの五十年史は、そのまま佐藤勇治さんの自分史となっていることに気付かされる。佐藤先生の年譜を見ると、1958年に調布学園を創業されている。時は戦後産声をあげたばかりの学習塾がよちよち歩きを始めたばかり。首都圏を中心に点在する学習塾は線でむすばれ、全塾連、PTFといった面が生まれることになる。そしてその中心にいて事務方として活躍をされたのが佐藤先生であった。さらに学習塾連絡会議、全国教育ボランティアの会、私塾の歴史資料館の運営を通じ、学習塾業界の「事務総長」としての役割を果たされたのである。

2023年7月9日、佐藤先生のご逝去は戦後の学習塾第1章の終焉を暗示しているように思える。ご生前のご功績に感謝し、謹んで哀悼の意を表します。

┃ 坂田 義勝 (私塾の歴史資料館 運営委員長)

享年八十八歳、今年2月15日に米寿を迎えられ、お花のプレゼントをしたときには、とてもお元気な顔を見せていらっしゃいました。「これからまだまだやることがあるので、百歳まで頑張ります」、と力強く語っておられた姿が思い出されます。

今年は、記録的な猛暑に見舞われましたが、ご高齢な佐藤先生にも健康上の負担が大きかったのかもしれません。6月頃に入退院を繰り返され、最期はご自宅でご家族の皆様に看取られながら静かに息を引き取られたそうです。葬儀は、ご親族や近親者のみで執り行われましたので、「私塾の歴史資料館」運営委員が発起人となって、去る10月22日(日)に大宮で「故佐藤勇治先生のお別れ会」を開催いたしました。多くの方々のご臨席を賜り、在りし日の想い出を皆様に語っていただきました。きっと佐藤先生も天国からにっこりと笑顔で見守ってくださったことと思います。

振り返れば、佐藤先生が学習塾業界のためにご尽力されたその偉業は、それぞれの時代にしっかりと刻み込まれ、貴重な資料として残されています。集大成とも言うべき一番の著書は、「学習塾百年の歴史・塾団体五十年史」です。6年がかりで編集発行にこぎつけた大書で「学習塾のバイブル」と評されるすばらしい歴史書だと言えます。著者は160名を超え、1200ページにも及んでいます。これまでも国内外の複数の院生が本書を参考文献として、論文作成にあたっていました。

そして、佐藤先生の晩年最後の偉業は、「私塾の歴史資料館」設立です。資料館の創設は佐藤先生が50年来の夢を実現させたもので、調布学園の地下一階を増改築して完成しました。蔵書は1万冊・写真は5万枚にも及ぶ壮大な書庫で、竣工式の時の佐藤先生の満面の笑顔が今も忘れられません。

私たち「私塾の歴史資料館」の運営委員は、この資料館に収められている学習塾の貴重な資料をできるだけ多くデジタル化し、本資料館のホームページに移す作業を現在も続けています。主だった著書は、既に取り込んでいますが、佐藤先生が一生をかけて取り組んでこられた足跡をできるだけ多く後世に伝えていくため尽力していきたいと考えています。

末筆ですが、故佐藤勇治先生がこれまで残してこられた功績に感謝するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。