サロンヒロキ

 周りとは異なる自分はおかしいのだろうか…。昔は特に異端は白い目で見られた。そんな時「私もそうだよ」「決しておかしいことではないよ」とその時々で本は背中を押してくれた。いつか手にした本によって救われる瞬間があるかもしれないから、今はすぐに手にしやすい環境作りを手伝いたいと、読書習慣を生徒に促している。
 子どもたちに本を薦めるのはファッションに近い。宮澤賢治や芥川や太宰等を読ませたいのは山々だが、名作とはいえ昭和以前の作品は現代っ子の「入り口」には適していない。映像・アニメ化などで知られている話題作(帯に俳優の写真があったり)、誰もが知っていて図書室で貸し出し中が多い作品などを薦めている。ミステリーも入り口には最適だ。
 そもそも古い本はフォントがダサい(大きさ、字間、全体のバランス含む)。ふりがなも少ない。勧めるには萎えてしまう。古典に分類される本は薦めていないから、子どもたちも抵抗が少ない(古典は感動を強要されるきらいがある)。素敵な装丁もポイントが高い。ボクが彼らに読んでもらうのはほぼ現代小説である。だから日頃からのチェックが欠かせない。

 興味関心がそれぞれ違うから、その子に合う作品を選ぶのも密やかな楽しみだ。だからといって必ずしも読んでくれるとは限らない。そんな時は大げさに懇願する。「すっごい面白い本があってさー、みんないいって言ってるし、〇〇が読んでも絶対面白いと思うから読んでくれないかな~。読んでくれたら嬉しいなー 」。彼らはそれでも躊躇する。「出だしだけでも読んでみない?」と授業の7,8分を読書タイムにする。「どう? 続き、読みたくならない?」
 本を読みたくない理由の1つに、「オワリまで読まなければならない」という強迫観念がある。ボクは「最初の10~15分読んで面白くなかったら、その本はつまらないから止めよう」と伝えている。そうじゃない名作があることも知っているが、最初の作品で「読書はやっぱりつまらない」とさせたくないのだ。

 ボクがそうであったように、彼らも自分の存在を疑い、何かに、例えば本に答えを求めようとする時期が来るだろう。映画もそうだし、もっといえば政治だって同じだと思う。多くの人が思い、悩んでいるけど忙しくてそのままにしている、言語化や共有されていないテーマを見つけ出し、それを提示し共感を呼ぶ作業が「普遍」たらしめる。仕事も同じかもしれない。だから、読書は一石二鳥どころか百鳥くらいある。生きるヒントが凝縮されている。残念だが映画は直に滅びる(笑)。テレビも近いうちに消える。ネット上の短文は齟齬が生じやすく、いろいろ面倒(国語力問題)で深みに欠ける。
 真の情報とは、暗闇の中から手探りで見つけ出す「継続性のある行動」だ。映像は受動だが、読書はその点能動的だ。生きる躍動。その原点が「読む」という行為だと思っている。
 カット。