エリア四国 近藤誠介(70号)

エリア四国 近藤 誠介 (文化の森スクール・徳島県)

「コロナ禍でみえた、既存の教育の限界」

“緊急時には、良き人はより良きことを為し、悪しき人は、より悪しき行いをする”らしい。この度の新型コロナの事態で、そのことがまざまざと明らかになっています。端的に言えば、人の本性が露顕してくるということでしょう。日本の最高学府といわれるものを卒業している人達の無能さ、そしてまた、日本の後進性が浮かびあがってきました。我が徳島県は、知事も市長も東大法学部出身です。今までの教育の在り方、知の在り方が問われているのです。恐らく彼らは知識も豊富で、情報処理も優れているのでしょう。では、一体何が欠けているのでしょう。そう、今の指導者達は、“教養”が感じられないということです。

では、“教養”とはなんでしょう。大学に、教養部があったのですが、1991年、大学審議会が「大学設置基準の大網化」を文部大臣に答申したことで、大学の教養部がどんどん廃止されていきました。教養教育より専門教育の方が大事ということなのでしょう。個人的には、教養のベースのない、すぐ役に立つような教育しか行わないのなら、それは大学とは言えないと思うのですが。それはさておき、教養にはやはり知識がとても大切です。多くの本に触れ、多様な考え方を知るべきです。そしてそのことで、自分をより大きな座標系に位置付けることができます。この世には,自分を超えた価値があるとわかり,自己を相対化して捉えるのです。それが単なる知識を超えた,教養といえるものではないでしょうか。

哲学者の村上陽一郎氏のことばです。『私にとって教養という言葉の持っているぎりぎりのものは,人間としてのモラルです。教養という言葉を揶揄するときの常套句に「理性と教養が邪魔をして」というのがありますね。でも、慎みを忘れそうになったときに、「理性」と「教養」とが邪魔をしてくれなければ、それは人間じゃない、とさえ言えるのです。』

また、歴史学者の阿部謹也氏は、『「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養」があるというのである。』と述べています。

高等教育を受けているにもかかわらず。理性と教養が邪魔をしない多くの人達。社会のために何かすべきなのに、自分の立場しか考えない人達。教育って、一体、何なのでしょう。大学、いや、中学や高校で何を学んできたのでしょう。それとも、政治や行政の組織の中でいると、だんだん腐ってきてしまうのでしょうか。いずれにしても、このコロナ禍は、既存の価値観を再考すべきという、天の啓示では。教育とは、本来、生徒達の狭い「既成概念」を、ぶっ壊してやることです。そういう意味でも、広い視野をつくる、教養が欠かせません。コロナ禍の対応をみても、今の学校教育では、それが無理なのは明らか。塾にこそ、次の若者を育てられる場があるのではないでしょうか。

ところで、9月入学、入試日程、夏休みの短縮等について生徒達はどう考えているのでしょう。教育委員会や学校にアンケートをとったという話はききますが、生徒の意見をきいたというのは余り耳にしません。そんなに、大人って、かしこいの。子どもの権利条約には、子どもの意見表明権というのがあります。個々の考えを大切にするという教育がなされなければ、民主主義は成り立ちません。

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